1981~1987年
第7章 米国での現地生産開始、多角化の進展
- 第1節 創立50周年と世界メジャーへの第一歩
- 第2節 ファイアストン社・ナッシュビル工場買収
- 第3節 CI実施と社名変更
- 第4節 経営トップ新体制に
- 第5節 新たな市販用タイヤ市場への対応
- 第6節 タイヤ事業の国際化の進展
- 第7節 タイヤ開発技術の革新
- 第8節 多角化事業の推進
- 第9節 新たなる経営目標の明示
第5節 新たな市販用タイヤ市場への対応
YMCAプロジェクトの編成
1970年代の後半から市販用タイヤの売上に陰りが出てきました。それは、「カーライフマニア」層を中心とした消費者のタイヤ購入意識の変化に対し、当社の対応が遅れていたことに起因していると考えられました。
危機感を抱いた当社は、タイヤのマーケティング機能に関係する部署から若手社員を横断的に集め、YMCA(ヤング・マニア・クリエイティブ・アプローチ)プロジェクトを編成しました。課題は、「多様化する車社会に適合し、若者に支持されるブリヂストンのイメージを構築し、この基本思想を起点に商品、ブランド戦略、チャネル政策といったマーケット戦略を作り上げる」ことでした。この中から新しい商品戦略としてマルチブランド戦略が採用されました。
マルチブランド戦略は、「走り」を徹底的に訴求した「ポテンザ」、「走りと居住性」を高い次元で調和させた「レグノ」、車に対してあまり関心のない幅広い層を対象にした「スーパーフィラー」の3つのブランドで構成され、異なるユーザーのニーズに応じて商品を推奨する、顧客対応の商品体系を作り上げることを意味しました。
チャネル戦略では、「コクピット」店が開発され、「走りと音のプロショップ」を基本コンセプトに、ヤング&マニア層に選ばれる店づくりを提案しました。タイヤや自動車用品とともに、オーディオ製品が重要な品目となるなど、それまでの店づくりの延長線上では考えられないものでした。1982年、第1号店「コクピット厚木」が開店しました。
また、アルミホイールなど拡大する自動車用品市場に対応するため、1983年には自動車用品事業部を設置しました。
新たな流通資本の登場とチャネル戦略
1970年代に「オートバックス」「イエローハット」に代表される自動車関連用品を販売する「オートショップ」が生まれ、1980年代には「業態」として定着していきました。当社は、有力オートショップには大量販売顧客として取引を推進し、並行して既存の小売り販売網を強化するという総合力強化戦略をとりました。
同時に、エリアマーケティング戦略が導入されました。これは「市場総点検」のデータ分析を基に、地区(エリア)ごとにシェアアップを図るため、販売拠点、サービス、人的資源などを投入していこうというものでした。
販売訓練の強化
1980年、販売会社の人材育成、強化のため販売訓練室が新設され、翌年、販売訓練センターが東京・芝浦に設置されました。厳しい環境の中でも売り抜くことができる人材の育成のため、販売会社の経営者、所長・課長訓練、当社のリプレィス部門の管理職の職能訓練が強化されました。その後、販売会社社員を対象とした訓練も開始されました。後にサブセンターが札幌、彦根、久留米に開設され、契約販売店対象訓練も開催されるようになりました。