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1949~1960年

第4章 技術革新と量産・量販体制の確立

第4章 技術革新と量産・量販体制の確立 1949~1960

第1節 グッドイヤー社との技術提携と苦境での積極経営

第1話 グッドイヤー社との技術提携と生産設備近代化5カ年計画

リッチフィールド会長の来日

当社が米国のグッドイヤー(GY)社との間に技術提携を結んだのは1951年6月、当時世界最大のタイヤメーカーであったGY社は、戦後日本への進出を計画していました。1949年11月、リッチフィールド会長が来日し、東京で当社の石橋社長と会談をしています。その冒頭にリッチフィールド会長は、GY社のジャワ工場を占領前よりも立派にして返してもらったことに対し謝辞を述べられました。また同会長は久留米工場を訪問後、久留米工場の規模が予想以上に大きいことと、従業員の働きぶりに大変感心したといいます。

石橋会長の訪米とグッドイヤー社の提示条件

リッチフィールド会長は、帰国後当社との提携の意思を固め、その交渉を図るため石橋社長を米国に招きました。1950年3月、石橋社長一行は羽田を発ち、アクロンのGY本社で提携交渉に入りました。GY社側からはリッチフィールド会長、トーマス社長をはじめとする幹部が出席しました。
交渉の焦点は、(1)GY社は当社に技術指導をし、当社は技術指導料を支払う、(2)当社はGYブランド製品の受託生産を行い、GY社は委託生産費を支払う、という二点でした。
交渉が一応の結論に達し、GY社が仮契約書案を提示した後、GY社から当社に対し株式の25%をもたせてほしいとの申し出がありましたが、石橋社長はこれを断りました。石橋社長は当時を振り返り、「私の希望はタイヤ技術の導入と生産提携であった。当時わが国のどの会社も外資を喜んで迎えていたが、私は日本の経済がまだ不安定の際、わが社にその用意はないと言って断ったところ、GY社は私の主張を容れ、将来適当なときに考慮することで諒解が成立した」と回想しています。(「私の歩み」)
その後、GY社と当社の間で調整を重ねた後、1951年6月22日調印が行われ、両者間の生産、技術に関する提携契約が成立しました。GY社からは技師2名、経理担当2名が久留米工場に駐在して技術指導にあたるとともに、同工場ではGYブランドタイヤの生産が開始されました。以後、両社間の提携条件は数回にわたって改訂され、1979年に技術提携契約は解消されました。

グッドイヤー社会長 リッチフィールド氏と石橋社長
生産設備近代化5カ年計画

GY社を訪問した石橋社長は、同社の工場を視察し「久留米工場の設備は時代遅れで、作業能率は5分の1以下である。また綿コードの時代は過ぎ去って、はるかに耐久力のあるレーヨンコードタイヤに代わっている。わが社の技術は20年以上も遅れていることを認識した。これを進歩させるには、GY社との技術提携をすることが最も得策であると決意した。また、私はGY社との提携の成否にかかわらず、一日も早くレーヨンタイヤに切替えねばならぬことを痛感した」と回想しています。(「私の歩み」)
石橋社長は、その構想を生産設備近代化5カ年計画として具体化していきます。同計画は1951年から1955年まで推進され、設備の近代化と綿コードからレーヨンコードへの切換えが進められました。久留米工場には主要設備が新設され、試験設備などの付帯設備も全面的に更新されました。

第2話 天然ゴム暴落による苦境と積極経営による業界首位への躍進

朝鮮戦争と天然ゴム相場の乱高下

1950年6月には朝鮮戦争が勃発しました。極東に駐留していた国連軍の特需と世界的軍需拡大に支えられた輸出増加により、わが国企業は息を吹き返し、タイヤ生産も拡大しました。
しかし、天然ゴムは重要戦時物資であったため、各国が買い付けに動き、国際相場は暴騰しました。ゴム業界では天然ゴムの不足と価格暴騰の二重の危機に見舞われました。日本ゴム工業会は、緊急輸入措置を政府に迫り、当初は政府備蓄も検討されましたが、GHQの許可が下りず、ゴム工業各社による緊急輸入が行われました。
ゴム会社が買い付けた大量の天然ゴムは、1951年から国内に入ってきました。ところが年を同じくして米国政府は戦略貯蔵物資の買い付け停止を発表し、さらに6月にはソ連による休戦提案が行われ、天然ゴムの世界市況は一挙に落ち込みました。
天然ゴムの価格は、年初のトン当たり66万円がその年の夏には半額にまで暴落し、ゴム会社は高値で契約した大量の輸入天然ゴムを引き取らねばならず、各社の資金繰りは窮迫したものとなりました。

資金難の中での設備近代化と業界首位への躍進

当社は、すでに1年分約6千トンの天然ゴムの手当てを実施していたため巨大な損害を受けました。当社の1950年の売上高は56億円、1951年は81億円でしたが、当時の天然ゴム暴落による損失は20億円にも達しました。タイヤ需要は、特需の激減と仮儒の反動から急激に落ち込み、生産過剰と製品の投げ売りで市況は極度に悪化していきました。
当社も赤字が累積し資金難に陥りました。1951年末には銀行からの融資でかろうじて年を越すという状況になりました。
当社を含むゴム会社は、日本銀行の斡旋により天然ゴム引取資金の協調融資を受けることと天然ゴム輸入手形の決済を延長してもらうことで、この窮状を切り抜けることができました。1952年3月、当社は自主的な操業短縮による市況回復も企てられ、見通しは若干明るいものとなっていきました。
そのような中、当社は積極的な設備投資を強行し続けたため、資金繰りは極端に苦しいままで、大手取引先からの前払金、販売店の融通手形を利用するなどの非常手段を取らざるを得ない状況でした。
資金難の中で設備近代化、レーヨンコードへの切換えのための大設備投資を敢行した当社の行動は、経営上の通念に挑戦するものでした。石橋社長は、苦境の中でこそ安易に融資に頼らず、コスト改善で赤字を克服し、企業体質を改善しなければならないと訓令しています。設備近代化、レーヨンタイヤへの転換の成功を石橋社長は信じており、資金難の中でも、設備投資を強行することで業界首位に躍り出ることができ、かつ苦境それ自体を解消させることができる、と判断していたのです。
設備近代化とレーヨンタイヤへの転換を通じ競争力を充実させた当社は、1953年、売上高100億円を突破、ついに日本において業界首位に立ち、資金難の克服にも成功しました。