1981~1987年
第7章 米国での現地生産開始、多角化の進展
- 第1節 創立50周年と世界メジャーへの第一歩
- 第2節 ファイアストン社・ナッシュビル工場買収
- 第3節 CI実施と社名変更
- 第4節 経営トップ新体制に
- 第5節 新たな市販用タイヤ市場への対応
- 第6節 タイヤ事業の国際化の進展
- 第7節 タイヤ開発技術の革新
- 第8節 多角化事業の推進
- 第9節 新たなる経営目標の明示
第2節 ファイアストン社・ナッシュビル工場買収
第1話 買収に至るまでの経緯
更地案から買収案へ
1980年、ファイアストン社CEO(当時)のジョン・ネビン氏が、同社唯一のTBR(トラック・バス用ラジアルタイヤ)工場であったナッシュビル工場の売却、あるいは合弁による生産を、当社に提案して来ました。
北米での生産拠点の必要性を強く認識していた当社は、この課題についての研究会をスタートさせました。研究会では、技術・生産部門を中心に、更地に新工場を建設する強い希望がありました。
理由は、既存工場の買収は設備の更新などのハード面ばかりでなく、従業員の再教育や、労働協約や制度の改定といったソフト面が困難であること、ミシュラン社の対米進出がノンユニオンポリシー(非組合主義)を貫いていることにありました。
しかし、新設工場は操業までに2年以上かかる上に、巨額の投資が必要で、長期間利益が期待できないと考えられました。一方、工場買収なら、買収後の操業度にもめどがつき、生産能力過剰の米国業界の反発も少ないと思われました。
当社方式と異なるファイアストン社の成型機を使いこなして能率向上と品質確保ができるかが、買収可否を左右する最大の問題点となりましたが、工場調査の結果、この方式で成型ができることが確認されました。
こうして1982年2月、趣意書が調印されました。買収価額は5,200万ドルで、1982年10月の買収実施を目標としました。服部社長は全社員に、「この工場をうまく運営していけるか否かが、今後当社が世界の舞台で生き残れるかどうかの大きな試金石となる」と訴えました。
買収実行への詰めと労働組合との折衝
当時、工場の稼働率は4分の1以下となっていました。組合員の3分の2はレイオフされており、非組合員のスタッフも月に2週間の交替勤務という変則状態でした。
労働協約のうち、日本と異なる代表的なものに先任権があり、勤務班の選択権、空席となった職種への異動の権利、レイオフ、リコールの順序、休暇取得日の選択などが先任権で決められていました。これでは、適材適所の配置や生産性向上が困難なため、組合との交渉で、当社は原則的に既存の協約を引き継ぐが、重要職種の指定など先任権の行使に例外を加える提案を行いました。
当初、組合はこの提案を拒否し交渉は決裂しましたが、再交渉の結果、提案は受諾されました。
11月、買収契約の調印が完了し、1983年1月、ブリヂストンタイヤ マニュファクチャリングUSA(1982年11月設立)に所有権の移転が終了し、ここに当社による操業が開始されました。
第2話 買収後の立て直し
買収時の実状
買収前の工場は、設備投資が中止され、品質改善がおろそかにされていたため、市場でのファイアストンブランドのTBRの評判は低く、販売不振に陥るという悪循環を起こしていました。
アドバイザー制度の採用
ファイアストン社時代は、製造上のトラブルがあっても、アクロンの本社や技術センターの指示を待つ組織体制であったため、これを改め、技術センター機能と品質保証機能を現地組織に組み入れました。これにより現地で販売先からの開発要請や市場での品質情報を受ける機能も果たせるようになりました。
日本人派遣者27人は、米国人マネジャーのアドバイザーという立場でしたが、理由は次のようなものでした。
- 1.工場は米国人の会社で、日本人は援助するだけという姿勢を示したかった
- 2.派遣者は、米国人社員の習得度に応じて減員を予定していたため、短期滞在者を職制に入れると混乱すると考えた
- 3.労働組合のある工場での、職制としての人事、労務管理は、英語力に限界がある日本人には困難と考えた
立て直し
ブリヂストンタイヤ マニュファクチャリングUSAの石榑社長は「品質最優先」「3年目で単年度黒字化」の基本方針を出しました。そして最高品質の製品を生産すれば、販売は必ず伸び、生産増につながると確信し、「Quality today will result in Quantity tomorrow (今日の品質は、明日の量をもたらす)」というスローガンを掲げました。
品質改善のため、4M(Material、Method、Machine、Man)改善が始められました。設備だけでも2年間で530カ所の改善を行いました。成型機では、買収決定前にファイアストン方式の優れた点を生かしながら、ブリヂストンブランドも製造可能な改造に成功しており、買収後、改良機に準拠して全成型機を改造しました。
原材料も当社の承認したもののみを使うため、当社並みの試験設備を設置し、厳格なテストを実施しました。そして、納入業者に対するQA監査も実施しました。しかしもともとファイアストンは作業性重視、当社は性能重視という違いがありました。原料ゴムが違っていたり、バンバリーミキサーが当社では使ったことがない超大型のものであったり、そのため機械の改造や試作が手探りで進められました。派遣者は昼夜兼行で問題解決に当たるなど、大変な努力を続けました。
製造方法では、誤作の防止と各工程での品質の「作り込み」を推進しました。ファイアストンのQA法は最終製品の段階で厳重に検査するやり方でしたが、当社流の「各工程ごとに後工程に品質を保証する」ことや「先入れ、先出し」などを徹底しました。
「人」については、「現物現場」の考え方がなかったため、人に品質意識を植え付ける手段としてTQC(Total Quality Control:全社的品質管理)を導入し、PDCAに「See」と「Think」を追加してSTPDCAとし、業務の中でこのSTPDCAのサイクルを回すように奨励しました。毎朝、技術スタッフを現場の主任、職長と共に検査工程に集めてスクラップタイヤを見ながら、原因追及、改善対策を打ち合わせるなど、「現物現場」の定着化を推進しました。
ブリヂストンブランドの生産開始と黒字転換
買収の1年後、当社の技術センターは、当社と同等の品質が得られたことを確認し、1984年3月、ブリヂストンタイヤ マニュファクチャリングUSAはブリヂストンブランドタイヤの生産を開始しました。石榑社長は全従業員を夫妻でナッシュビル市内の観光遊覧船に招待し、共に汗を流してきた人々と喜びを分かち合いました。ブリヂストンタイヤ マニュファクチャリングUSAは買収2年半後の1985年7月、400人以上のレイオフされていた組合員の再雇用を完了し、8月には単月黒字転換、下期半期での黒字転換、1986年には通年で黒字転換を果たしました。