1973~1981年
第6章 創業者の死去と輸出基盤の強化、現地生産の進展
第4節 アジア・大洋州での現地生産拡大
第1話 ブリヂストンタイヤ インドネシアの設立
インドネシアは当社の主要輸出市場であり、当社は工場進出を1960年代から検討していましたが、チャンスを得ることができないまま推移していました。
1971年末、同国ではタイヤの輸入禁止措置が実施され、日本からの輸出も進まぬ状態となりました。当社は工場進出を構想しましたが、インドネシア政府は国営タイヤ2工場の経営圧迫を理由に難色を示し、他社の競願もあり難しいものでした。
たゆまぬアプローチの結果、1973年に正式許可を取得することができ、同年、ブリヂストンタイヤ インドネシアを設立しました。出資比率は当社72.5%、三井物産12.5%、現地パートナー15%でした。
新会社は、1976年に生産・販売を開始しましたが、品質が高く評価され、生産・販売ともに順調に伸びました。1977年から1978年にかけて拡張工事を実施しています。同社は、インドネシア経済の動揺による影響を受けつつも、需要の増大に対応して拡張を続けました。
第2話 ブリヂストン イランの設立と撤退
国内の交通・輸送手段のほとんどを自動車に依存するイランでは、経済成長に伴いタイヤ需要は年々増大していました。グッドリッチ、ゼネラルの2社がタイヤ工場を経営していましたが、イランは需要の半分を輸入に依存し、輸入量は増大傾向にありました。
1971年、イラン政府が第3のタイヤメーカーに日本メーカーを希望していること、日本側に50%の出資を認めることが明らかになり、将来の需要増が期待されることから、当社は工場進出を推進することを決定しました。
1972年、調査団を派遣し、テヘラン南方900kmのシラズに工場建設することを決定し、1973年に政府許可を取得し、同年ブリヂストン イランが設立されました。出資比率は当社45%、丸紅5%、現地パートナー50%、生産規模は月産5万5千本でスタートしました。
1976年から正式に生産・販売を開始。生産開始後、急ピッチで生産を拡大、1977年には品質、生産量ともイランでトップメーカーとなりました。
その後も業績を向上させ、将来を期待されましたが、イラン各地に発生した反国王運動が革命に発展し、1979年2月にパーレビ体制が崩壊。混乱の中、派遣者はテヘラン空港閉鎖直前に、かろうじて国外に脱出することができました。
新たに樹立したイラン政府は産業国有化の方針を打ち出し、1980年にはブリヂストン イランに対しても国有化対象企業であると通告をしました。1980年9月に対イラク戦争が勃発すると、イラン政府は同社に役員を派遣し、会社の全権を掌握しました。
その後も政府の国有化方針は変わりませんでした。また、当社からブリヂストン イランに対する貸付金の返済やロイヤルティーの支払が滞ったままであったため、1981年、当社は通産省に対して海外投資保険の適用を申請しました。
1983年、ブリヂストン イランの政府派遣役員と二度の交渉が行われ、投資総額の約半分をイラン側が補償し、残りの一部については海外投資保険の適用を受けることで決着し、当社のイランでの事業は幕を閉じることとなりました。
第3話 台湾・中一ゴム工業への資本参加
台湾での需要増大に対応するため、1980年、台湾第4位のタイヤメーカー中一ゴム工業と合併契約を締結しています。中一ゴム工業は資本金を5億元に増資し、新会社の株式の40%を当社が引き受けました。1982年、台灣石橋輪胎股●(●は、にんべんに「分」)有限公司と社名を改め、台北の西南約60キロメートルにある新竹の新工場の操業を開始、ブリヂストンブランドの乗用車用タイヤの生産と販売を開始しました。
第4話 オーストラリア・ユニロイヤル社の買収
1980年、当社は米国のユニロイヤル社から、同社がオーストラリアに保有する持株会社ユニロイヤルホールディングズ社を買収しました。
ユニロイヤルホールディングズ社は、傘下に事業子会社ユニロイヤルを保有していました。ユニロイヤルの従業員数は約2,200人で、タイヤ工場をソールズベリに、カーペットなどの消費財工場をダンデノンに、自動車部品工場をエドワーズタウンに保有していました。
当社が、欧米の大企業から既成の子会社を買収、経営するのは初めてのことでした。1982年、持株会社と事業会社を統合し、社名をブリヂストン・オーストラリアとしました。