1961~1972年
第5章 高度成長とモータリゼーションの中で
- 第1節 株式公開と社長交代
- 第2節 総合的品質管理活動(デミング・プラン)
- 第3節 技術センターの建設と生産能力の拡充
- 第4節 ラジアルタイヤの開発と相次ぐ国内工場の建設
- 第5節 国内タイヤ販売体制の近代化とラジアルタイヤ時代の販売活動
- 第6節 海外でのタイヤ販売活動
- 第7節 海外工場の建設
- 第8節 多角化の推進と見直し
第7節 海外工場の建設
第1話 戦後初の海外工場-シンガポール工場
1959年、マラヤ(現 マレーシア)、シンガポール両国政府は創始産業法を制定し、特定業者に所得税の5カ年間免除、用地・用水・電力の低廉供給などの恩恵を保証しました。マラヤとシンガポールの合邦も構想され、マレーシア共同市場の形成が期待されました。
当社は工場進出を構想しましたが、マラヤ政府はダンロップ社のみに認可を与え、当社の構想は挫折することになりました。1963年、丸紅からローヤットグループとの合弁計画が提案されました。マラヤ政府の特恵措置は得られないため、シンガポール政府から創始産業の資格を得ようとする構想でした。
当社は調査団を派遣し、ローヤット側と折衝を重ね、1963年に合弁契約を締結しました。当社にとって、創業以来初の現地資本との海外合弁事業となりました。同年、現地側50%、当社50%の出資比率でブリヂストン・マレーシアを設立しました。 工場要員は、当社から工場建設応援者を含めて31名を派遣し、一方現地スタッフ25名はトレーニーとして一年間当社工場で訓練を受けることとなりました。この方式は以後当社海外工場建設のパターンとなりました。
同社は1965年に開所式を行い、生産・販売を開始しています。同社は販路開拓と資金繰りに苦労しましたが、1965年、シンガポールがマレーシア連邦から分離独立する事態となり、さらに苦境に陥りました。工場建設は、マラヤとシンガポールの合邦による共同市場の形成を前提にしていたためです。同社は国内市場開拓と輸出拡大のための経営努力を重ね、1967年にはようやく赤字からの脱却を果たしました。
1968年にはブリヂストン・シンガポールと社名を変更し、乗用車用タイヤの生産を開始。しかし、1970年には創始産業法適用の期限が終了し、特恵措置も消滅しました。狭い国内市場と激しい輸出競争という困難な環境が続いたため、余剰設備の活用と多角化に活路を求めることとなり、1977年に編上ホースの生産を開始しました。
シンガポール政府は、経済政策を転換して高賃金政策を採用。更に1980年にはタイヤの輸入関税を撤廃したため、同社の競争力は急激に低下し、同年、生産活動を中止することとなりました。当社はシンガポールでのタイヤ生産から撤退しましたが、戦後初の海外工場建設から得た経験と人材は、その後の国際化を支える重要な基盤となりました。
第2話 タイ工場の建設
タイは1957年、産業投資奨励法を施行し、タイヤ産業も奨励対象とされました。当社はタイ国投資委員会と折衝を行ったものの実現には至らず、その後1963年にファイアストンが進出することになりました。
1966年、タイ政府は日本企業に第2のタイヤ工場建設を許可する方針を決定。当社は三菱商事と組んで許可申請し、1967年初に内定を得、同年現地グループと合弁契約を締結して日泰タイヤを設立しました。
1968年、社名をタイ・ブリヂストンに変更し、1969年には製造販売を開始しています。日系自動車メーカーへの納入にも恵まれ、タイの代表的優良企業に成長していきました。