1961~1972年
第5章 高度成長とモータリゼーションの中で
- 第1節 株式公開と社長交代
- 第2節 総合的品質管理活動(デミング・プラン)
- 第3節 技術センターの建設と生産能力の拡充
- 第4節 ラジアルタイヤの開発と相次ぐ国内工場の建設
- 第5節 国内タイヤ販売体制の近代化とラジアルタイヤ時代の販売活動
- 第6節 海外でのタイヤ販売活動
- 第7節 海外工場の建設
- 第8節 多角化の推進と見直し
第3節 技術センターの建設と生産能力の拡充
第1話 技術センターの建設
かつて技術開発部門は久留米と東京の二つに分かれておりましたが、東京工場の建設計画に関連して、研究所を工場に隣接して作る必要が生じ、この機会に総合的研究機関を東京工場と合わせて新設しようという意見が広がり、技術センターの新設が決定されました。
石橋正二郎社長は、東京工場のレイアウトに関する基本構想を練る際、工場と研究所が向き合い協力し合って良い製品を生み出すという姿を強く求めたことから、敷地内道路の北側に工場、南側に技術センターを配置することに決まりました。
起工式は1961年4月で、1962年4月に技術センターが完成。研究スタッフは350名を数え、最新鋭の設備が導入されました。当時、これだけの総合研究所を持つ企業は、わが国ゴム業界では当社しかなく、研究開発に関しては業界の先端をゆくことになりました。
第2話 那須、彦根工場の建設と東京工場の増設
那須工場
横浜工場では、自転車用、二輪自動車用などのタイヤを生産していましたが、このような労働集約的な小型タイヤを都心に近い工場で生産することは非効率であること、また化工品の生産量増加により工場が手狭になり、更に、多様で複雑な現業を管理することも困難になってきたことから、小型タイヤを切り離し専門工場を建設する必要が出てきました。そこで、東京に近く多くの労働力が期待できる黒磯(現 那須塩原市)に、新しい小型タイヤ工場の建設が計画されました。
1961年に起工式を行い、自転車用・二輪自動車用タイヤを生産する那須工場が誕生したのです。
東京工場の増強
1960年の東京工場第1期工事の完成に続き、モータリゼーションの本格化に伴うタイヤ需要の急増に対応し、1961年に急遽第2期工事を開始。これにより、東京工場はそれまでの二倍のスペースを持つマンモス工場となりました。東京工場の建設と拡充は、当社の競争力を飛躍的に高め、国内市場で自動車タイヤの50パーセント近いシェアを獲得する原動力となりました。
彦根工場の建設
彦根工場の建設は1967年3月に着手し、翌年2月に完成、3月に生産を開始しています。敷地は国内最大の約61万平方メートルで、一貫流れ作業方式は、東京工場方式をさらに合理化したものとなっていました。