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1949~1960年

第4章 技術革新と量産・量販体制の確立

第4章 技術革新と量産・量販体制の確立 1949~1960

第6節 多角化の動き

第1話 フォームラバーの開発とウレタンフォームへの転換

「エバーソフト」の発売

1950年、米国でフォームラバーの工場を見学した石橋社長は、帰国後フォームラバーの試作を指示しました。久留米工場のパイロットプラントでの試作後、横浜工場内にフォームラバープラントを建設し、1952年に生産を開始しました。
1952年、当社はフォームラバーを「エバーソフト」の商品名で発売しました。この商品名はフォームラバーの代名詞になるほど消費者に浸透し、高シェアを確保することができました。乗物の座席用シートとしては座り心地がよく、寝具用としては綿のような打直しの必要がなく利便性に富み、寝心地もよく耐久性があったためでした。
当社は、特にマットレス、枕、座布団などの家庭用品の販売を強力に推進しました。これらの商品は当初需要が少なく苦労もありましたが、利便性や耐久性の浸透により1956年からは急激に需要が増し、デパートの寝具・家具売場で扱ってもらえるようになりました。1953年に180トンであったエバーソフトの生産量は、1960年には約7千トンへと飛躍的に増加しています。1958年には、家庭用フォームラバー市場でエバーソフトのシェアが50%を超えました。

発売初期のエバーソフトのパンフレット
ウレタンフォームへの進出

1955年当時、当社はウレタンフォームの将来性を評価し、「ウレタン時代」が来ることを予測していました。ウレタンフォームは製造原価も安く、フォームラバーに比べクッション性は若干劣るものの、その軽さ、断熱性、耐摩耗性などの点で優れていました。また軟質・硬質の両フォームを生産することができ、加工も簡単であったため、産業・建材・衣料・寝具用と用途は大変広いものでした。
1959年、ドイツのバイエル社とウレタン製造技術導入の契約を結び、翌年には横浜工場内のウレタンフォーム工場が操業を開始しています。製品は「エバーライト」と命名され、主に寝具・衣料関連の分野に進出しました。
エバーソフトとの競合が問題となりましたが、価格が安価だったエバーライトがエバーソフトを凌いでいきました。エバーライトは間もなく業界第一の地位を獲得しましたが、その後は多数のメーカーが参入し、激しい販売競争が繰り広げられることとなりました。

第2話 工業用品分野の強化

新商品の開発

戦後の統制が解除されると、当社はベルト、ホース、防振ゴム、空気ばねなどの工業用品の生産に積極策をとることになります。
1954年から1960年まで、工業用品部門は新製品開発、国内販売強化、輸出促進、久留米工場から横浜工場への設備移転に重点的に取り組みました。
当社は、戦後久留米工場でベルト、ホースの生産を開始しましたが、生産メーカー数が多く価格競争が激しかったため、1955年のシェアはベルト3%、ホース5%にすぎませんでした。
当社は、当社でなくては造れない特色ある製品の開発を目指し、わが国初となるレーヨンコンベヤベルト、世界初のオールナイロンコンベヤベルトの開発をしています。
コンベヤベルトと防振ゴムの売上高は、わが国産業界の設備投資ブームが本格化する1960年以前から顕著な伸びを示しました。コンベヤベルトは、シベリア開発用のソ連向けを中心に輸出も大きく伸びました。また、需要が急速に増えつつあったワイヤーブレードホースについては1960年、最新鋭の設備を米国より輸入し、生産能力を増強しました。
横浜工場では、戦時中から手がけていた防振ゴムの生産を1952年に再開、1954年には同工場内に防振ゴム専門工場が完成し、生産は本格化されました。当初、需要先はほとんどが自動車メーカーで、乗心地の改善や防振・防音に性能を発揮しました。また、鉄道技術研究所の要請で空気ばねの試作を行い、これが新幹線の空気ばねへと発展していきました。これらの工業用品は当時、久留米と横浜の二か所で生産していましたが、合理化と競争力強化のため、1964年に横浜工場にその生産を集約しています。

第3話 ゴルフボールの生産再開と新商品の開発

当社は戦前にゴルフボールを生産していましたが、日中戦争勃発後の1938年に政府から贅沢品として禁制品の指定を受け、翌年製造を中止しました。戦後1947年になって、久留米工場で戦前に使用していた糸巻き機械、モールド(金型)などの設備を修理して試作を再開。1951年に「ブルースカイ」「スカイウェイ」のブランドで本格販売を再開しましたが、1951年の月産量は200ダースと、戦前最盛期の1千ダース台には程遠い状況でした。
1952年に生産を横浜工場に移転後は、生産量は徐々に伸び、1954年には月産2千ダース、1957年には月産1万ダースのラインに達しました。品質改良も進み、生産量は上昇しましたが、外国製ゴルフボールに比べると評価は低く、販路の拡大は困難なものでした。
この壁を打ち破るため、1956年「ブリヂストンQ」を発売。このボールには、従来には無かったコンプレッション(硬度)の差による「赤」「黒」の2種類を設けたことが評判となり、飛びも輸入品並みと評価され、売上げにも大きな影響を与えました。ゴルフボール販売はゴルフブームに加え、品質向上、新製品開発、販売活動などにより、1958年以降急速に増加することとなりました。
しかし、当時はゲーム用ボールでは日本人の舶来品崇拝もあって依然輸入ボールのシェアが高く、1958年に日本ダンロップが「ダンロップ65」を国産化すると、販売競争はさらに激しくなりました。

ブリヂストンQ

第4話 サイクル部門の立て直し

サイクル部門は、1949年に旭工場がブリヂストン自転車として独立した後も、競争激化や値くずれ、原材料費の高騰に、後発メーカーとしての経験不足などが重なり困難な状態が続きました。
このためブリヂストン自転車は、販売強化を目的に、1952年に販売業務を当社に委譲し、ブリヂストン自転車が生産を、当社が販売を担当する体制に移し、立て直しを図りました。
技術担当者はダイカストフレームの改良に全力を注ぎ、市場の信用は徐々に回復していきました。1954年には経営も安定しましたが、当時の自転車市場での「ブリヂストン」の知名度はまだ低く、1954年のシェアは3%にすぎませんでした。

第5話 新しい合成ゴムの開発と工業化

日本合成ゴム株式会社の設立

ゴム消費量が増加するにしたがい、合成ゴムへの関心も高まり、朝鮮動乱による天然ゴム相場の急騰は合成ゴムの国産化を促進する決定的な要因となりました。
合成ゴム製造事業には莫大な設備資金を要し、民間の力だけではその実現が困難と考えられたため、政府は1957年に「合成ゴム製造事業特別措置法」を公布施行し、助成をしています。公布施行の翌月、通産大臣から日本ゴム工業会の会長でもあった石橋社長に、合成ゴムの新会社の責任者に就任するよう要請があり、石橋社長はそれを受け入れました。こうして1957年12月に日本合成ゴム株式会社(現 JSR株式会社)が設立され、当社の出資比率は12%でした。