1949~1960年
第4章 技術革新と量産・量販体制の確立
- 第1節 グッドイヤー社との技術提携と苦境での積極経営
- 第2節 ブリヂストンビルの建設と創立25周年
- 第3節 技術革新と東京工場の建設
- 第4節 国内タイヤ販売活動の強化
- 第5節 輸出の再開と販路の拡大
- 第6節 多角化の動き
第2節 ブリヂストンビルの建設と創立25周年
第1話 社名復旧とブリヂストンビルの建設
社名の復旧と社旗の制定
会社設立当初の当社の社名「ブリッヂストンタイヤ」は、軍部から変更を命じられ、1942年に「日本タイヤ」と変更しましたが、1951年に当初の社名に復旧しています。同時に「ブリッヂストン」を「ブリヂストン」に改めました。
1951年に石橋社長より制定の指示があった社旗は、ブリヂストンビルの屋上に日の丸と並んで掲揚され、「国連スタイルのブリヂストンビル」と当時話題になりました。
ブリヂストンビル建設とブリヂストン美術館
1945年10月以来、当社は麻布飯倉片町の仮事務所で業務を続けていましたが、京橋の焼跡に社屋を再建することは終戦直後からの念願でもありました。1951年12月に竣工したブリヂストンビルには、本社・東京支店・日本ゴム・ブリヂストン自転車などが入居しました。地上9階建てのビルは、当時の最高層建築物で、斬新な外観と内装を備えていました。
併せて、名画コレクションに情熱をかたむけてきた石橋社長の「美術は秘蔵すべきでなく一般公衆に公開すべき」との理念に基づき、2階には「ブリヂストン美術館」が開設されました。
久留米工場大水害と厚生施設の再建拡充
1953年6月、500ミリを超す豪雨に襲われた筑後、佐賀、肥後平野は大被害を受け、久留米は筑後川の氾濫により家屋のほとんどが水に浸かってしまいました。久留米工場は救護隊を編成し、市民救助に尽力しました。
工場は、ボイラー室、ポンプ室、バンバリー室、機械倉庫が浸水しましたが、昼夜兼行の復旧作業で1週間後には一部の生産を再開させることができました。しかし完全復旧までには約1か月を要しています。
従業員やその家族には、幸い死傷者を出すことはありませんでしたが、罹災状況は深刻なものでした。社宅は水浸しとなり、被害が大きかったところでは100戸が5日間屋根まで水に浸かっていたといいます。
当社は被害のあった建物の修復にとどまらず、福利厚生施設の復興計画として着手。
水に弱い木造の社宅や寮を高層のコンクリート建てに改築、周辺には幼稚園や児童館、BS会館、体育センター、マーケットを配したコミュニティーをつくるという、石橋社長のアイデアが構想の骨子となっていました。
第2話 創立25周年記念行事
創立記念式典と社歌の制定
1956年4月、創立25周年を迎えた当社は記念行事を実施しています。4月24日の社内式典には、約3千名の従業員が出席し、久留米工場内に新設された記念ホールで行われました。式典終了後には、石橋社長はじめ従業員は、25周年を機に編成されたブラスバンドを先頭に4キロの道のりを石橋文化センターまで行進、到着後「BS25」の人文字をプールスタンドに描き出しました。翌25日の記念式典には、全国より来賓を記念ホールにお迎えしました。
創立25周年を機に、石橋社長の作詞、團伊玖磨氏の作曲による社歌も制定されました。
石橋文化センターの寄贈
久留米市は空襲でその3分の1が焼野原と化し、戦後の市民の生活は日々の暮らしで精一杯という状況でした。石橋社長は、郷土久留米の文化施設を充実させることを念願し、石橋文化センターを久留米市に寄贈することとしました。