1906~1929年
第1章 当社創業の基盤 - 創業前史
第4節 ゴム靴の量産と販売
第1話 ゴム靴への進出
日本足袋社におけるゴム靴の製造は、地下足袋にやや遅れて1923年10月に始まっています。当時、洋服の普及にともない履物も下駄や草履から靴へと移りつつありました。しかし革靴は高価であったため、日本足袋は安価な布製ゴム底靴が日用品として使用され、その需要が大きいのではないかという点に着目し、地下足袋製造のかたわらゴム靴(ズック靴)の製造にも乗り出していきました。
正二郎は「その頃、一般の履物は下駄や草履が多く用いられていたが、活動に不便で不経済、早晩進歩したものに代えられるべきものであった。私はゴム底の布靴や長靴などを安価に供給すれば大衆の生活に益するにちがいないと考えた」と自伝「私の歩み」で述べています。
ゴム靴は、全国の学生がいっせいに使用しはじめ、売れ行きは好調でした。しかしこのため原材料の生ゴムや綿花の輸入量が莫大となりました。原材料輸入代金をカバーすることが国家経済の上からも責任があると考えたことと、ゴム靴には内需もさることながら、膨大な海外需要の存在も明らかと考えたことから、1927年5月輸出課を新設し9月には海外市場の販売を開始しました。
日本足袋は、1928年から翌年にかけて、福岡市蓑島にゴム靴専門の新工場を建設、操業を開始しました。
第2話 輸出と現地生産
翌1930年2月、社長の徳次郎は相談役になり、正二郎が社長に就任しました。
この年は、1月の金解禁で日本経済は大恐慌に陥っています。そのような中、議会において時の蔵相、井上準之助が「かかる不景気中にも、なお繁盛しているものに、東にマツダランプあり、西に日本足袋あり」と社名を挙げるほど日本足袋の繁栄は続いていました。日本足袋は毎年必ず3割の増産計画で、1923年に地下足袋200万足だったものが1933年にはゴム靴ともに4,000万足と、ちょうど10年間に20倍の成長を達成しました。
輸出先は中国、東南アジア、インドからイギリス、アメリカ、フランス、ベルギーなど欧米先進諸国にまで及びました。1933年にロンドンで開かれた国際経済会議で日本製ラバーシューズの「ダンピング輸出」が論議されたほど、その輸出は目ざましいものでした。
第3話 タイヤ生産へ
1906年久留米の仕立物屋を引き継いだ17歳の正二郎は、足袋の専業化、徒弟制度の改革、均一価格の採用、地下足袋の創製、ゴム靴への進展、海外生産と、矢継ぎ早に革新的な施策を実行し、時の蔵相に賞賛されるような大きな成功を収めつつありました。しかし正二郎はその成功に満足はしていませんでした。社内や親族、知人などの激しい反対を押し切り「日本人の資本で、日本人の技術によるタイヤの国産化」という、前人未到の分野に踏み込んでいこうとしていました。