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1906~1929年

第1章 当社創業の基盤 - 創業前史

第1章 当社創業の基盤 - 創業前史 1906~1929

第3節 地下足袋(じかたび)創製によるゴム工業への進出

第1話 地下足袋創製までの苦心

日本足袋は創立直後、第一次大戦後の反動不況に遭遇したが、大戦中早めに原料在庫を処分していたため、比較的軽微な損害で切り抜けることができたものの、売れ行き不振の中で100万足の製品在庫を抱えていました。そのときの生産状況は、1919年度の406万足を頂点として、1920年度には300万足に激減しています。市況が急に好転する見通しがありませんでしたので、正二郎は兄の徳次郎とともに、この苦境を新製品分野への進出によって打開しようと考えました。

第一次世界大戦中、わが国は輸出超過で膨大な外貨を獲得し、経済は発展し国民生活も向上しました。しかし、日本の勤労者の履物は依然「わらじ」でありました。
わらじでは足に十分な力が入らないため作業効率を妨げ、釘やガラスの破片を踏み抜きやすく危険でもありました。しかも、耐久性が無いため一日に一足は履きつぶしてしまう。農家では夜なべでわらじを生産していましたが、買えば5銭(1銭は1円の100分の1)はするものでした。そのうえ足袋も必要となると月に1円50銭、年に18円の履物代がかかり、勤労者にとって決して馬鹿にはできぬ負担となっていたのです。当時の賃金は日給1円内外が標準的なものでした。わらじよりもはるかに耐久性に富むゴム底足袋に対する潜在的需要は膨大なものがありました。

ゴム底足袋は、1902年ころから阪神や岡山県などで生産されていました。それにもかかわらず第一次世界大戦後までわらじに取って代われなかったのは、ゴム底縫付け技術が開発されぬまま推移し、縫糸が切れやすく耐久力が無いという欠点を解決できなかったからでした。

日本足袋では1921年にゴム底足袋の製造に着手しました。これは縫付け式のゴム底足袋、通称「豆底」で、岡山、広島のゴム会社からゴム底を買い入れて加工しました。しかしこれは採算上不利であったため、ゴム底の自給を図ることを計画しました。社員を岡山に派遣してゴム精練技術を習得させ、1922年初めに12インチロール機と加硫罐(かりゅうかん)を購入し、小規模ながらゴム底からの一貫生産に入りました。しかし、日本足袋においても縫糸が切れやすく耐久性が無いという技術的困難に突き当たり、底の離れないゴム底足袋製造方法を開発することが緊急課題となりました。

そのような折、1922年の初め兄の徳次郎が上京し、三越百貨店で米国製テニス靴を購入してきました。日本足袋はこのテニス靴にヒントを得て、これまでのゴム底縫付け方式から貼り合わせ方式に転換することで懸案を解決しようと考えました。そのためにはゴム専門の技術者が必要となります。
この年の6月、正二郎は大阪工業試験所にゴム主任技師の田中胖氏を訪ねて人選を依頼し、大阪の角一ゴムに勤務していた森鐵之助が推薦され日本足袋に入社することになりました。森は、繊維専門の技師、堤福次郎と協力して鋭意研究にあたりました。その結果、8月にはゴム糊をゴム底粘着に利用した堅牢なゴム底足袋の生産に成功しました。試作品を三井三池炭鉱の千人あまりに実験として供したところ、坑内の上り下りに滑らず、仕事の能率が上るという好評を得ることができました。
日本足袋会社の創案は、1923年10月実用新案登録番号第80594号、第80595号として権利が確定。関連する実用新案を買収し、初めて商品として価値あるものにする現実的で独創的な考案でありました。こうして1923年1月から販売を開始しました。これが「アサヒ地下足袋」の誕生です。地下足袋というネーミングは商品の名前でしたが、今日では普通名詞として使用されるまでになりました。

わらじ
地下足袋

第2話 地下足袋事業の成功

市場開拓の苦労

アサヒ地下足袋発売当初は、市場開拓のための苦労も経験しました。せっかくの新製品も期待したほどの売れ行きを示さなかったのです。それは、第一に品質上の苦情、第二に消費者の新製品に対するなじみの薄さにありました。
品質については1923年5月と8月に思い切った改良が加えられました。その結果、足袋に底ゴムを貼り付けたような形を脱し、近年のものとほとんど変わりのない品質・外観のものを作り出しました。
また販売においては、代理店任せにするのではなく、日本足袋従業員が自らアサヒ足袋を履いて三池炭鉱や農村を歩き、その優秀性を説いて回りました。
こうした努力が功を奏し、次第に勤労者に歓迎されるようになっていきました。何といっても1足1円50銭の地下足袋を使用すると、耐用年数が半年ありましたので、履物代が年3円で済み、わらじのときの年18円に比べ15円の節約ができました。
作業能率や安全性などのメリットも合わせて勤労者にとって一大福音となりました。
地下足袋は飛ぶように売れるようになり、増産のために昼夜兼行、設備を増やしても間に合わないほどで、注文を断るのに苦労するほどでありました。
1923年1月発売当初の日産1,000足は、年末には1万足にまで増加。同年9月の関東大震災後の復興過程でも大いに重宝がられ、全国市場にアサヒ地下足袋の名が広がる一つの契機となりました。
地下足袋の特殊用途としては、電気工夫はその絶縁性で危険を防止することができ、鉱山ではワイルス病の予防になるということで、入坑者は必ず用いらなければならないルールができたほどでした。

特許権

アサヒ地下足袋発売の翌年1924年5月20日夜、日本足袋久留米工場が全焼するという災厄が生じました。災厄は重なって起きるもので、日本足袋の生産停止に乗じて10数社の足袋会社が粗悪な地下足袋模造品を製造開始、日本足袋は直ちに特許権侵害の訴訟を起こしました。2年間の係争を経て、1926年に勝訴しました。この事件後、日本足袋は地下足袋製造を希望する者には1足あたり2銭で使用権を認め、製造を許可することになりました。

驚異の販売と量産新工場設立

一方、日本足袋は6万6,000平方メートルの工場を鉄筋コンクリート建てで再建するという10年計画を立案し、実行に移しました。(焼失前の工場は3,300平方メートル)
20倍の大拡張であり、しかも手工業から近代工業への転換となるものでした。新工場には、コンベアベルトやエレベーターで工程をつなぐ量産システムを採用し、能率向上とコスト改善を図りました。正二郎はかねてよりヘンリー・フォードの大量生産方式を研究していましたので、再建に当たり一気にこの量産システムを実現させたのです。
コスト改善は一層の需要増加を呼び起こし、アサヒ地下足袋の生産高は急増しました。生産開始から5年目の1927年には年産1,000万足、1935年には年産2,000万足をマーク、これでも供給不足でありました。国内はもちろん朝鮮半島や中国にも販路が広がり、天馬空をゆくと言われ、業界の驚異となりました。
後述するアサヒ靴も含めてアサヒ製品の大量生産、大量販売能力を拡充するために必要な資金は、相次ぐ増資によって調達、1926年2月には資本金200万円への倍額増資、1928年11月には資本金500万円への増資を行いました。

久留米の新工場