MY LIFE with Motorcycle
Vol.1 奥川潔さん・54歳 (チューニングショップ経営)
人はなぜバイクに乗るのか。
そして、なぜバイクの魅力にとりつかれてしまうのでしょうか。
この答え、適切に、しかも普遍的な言葉で表現するのはとても難しいことです。
バイクに乗る楽しさ、バイクとのつきあい方というのは、私たち一人ひとりの人生のなかで体験する、とても「個人的な物語」であると思われます。
私たちはタイヤをつくるとき、性能や技術の向上はもちろん、同時に「いかにバイクのある生活を楽しんでいただけるか」ということも考えていきたいと思います。
そこで、この連載ではプロのライダーではない一般の、そしてあらゆる世代の方に「バイクとともに過ごす生活」についてお話しを伺っていきます。
バイクに乗るとき、みなさまが感じる気持ちや空気、そして、見つめている景色を共感する「MY LIFE with Motorcycle」
連載第1回目は、6月22日(水)鈴鹿サーキット(国際レーシングコース)で開催された「BATTLAX PRO SHOP 走行会」に参加していただいた奥川潔(おくかわ きよし)さん(チューニングショップ経営)にお話しを伺いました。
友よ、死ぬまでいっしょに走ろう。
「この会場に、かつてハーレーで日本一速く走った男がきている」
鈴鹿サーキットでの「BATTLAX PRO SHOP走行会」を取材中、そんな情報が入ったのでインタビューをお願いすべくピットを訪ねました。
お会いするまではワイルドな男性を想像していました。ところが、意外や意外、そこにいたのは柔和な表情をした細身の紳士でした。
奥川潔さん54歳。
現在、埼玉県の所沢市でBURN H-D SPORTSというハーレー専門のチューニングショップを経営しています。
「今日はスポーツ走行を楽しむためにやってきました。16歳のときからの友人といっしょです。じつは僕がバイクに乗りはじめたのは彼の影響があったから......。ハーレーのレースで年間王者になったのも、お店を経営するようになったのも、自分が好きなことをやりつづけた結果ではあるものの、元をたどれば、この友人、梶哲朗がいたからなんです。」
ツインの歓喜
奥川さんは東京の杉並区で生まれ育ち、16歳のときに地元の高等専門学校のデザイン科に進みました。
梶哲朗さんとは、その学校で同級生として知り合いました。
「梶は社交的で流行に敏感な男。無口で奥手な少年だった僕には、とても新鮮で魅力的に思えた。それで、親しくなるにつれ、いろんな面で影響を受けるようになっていったんです」
当時、流行りの乗り物だったバイクもそのひとつ。梶さんが颯爽とバイクに乗る姿がとても眩しく映り、自分もああなりたいと、すぐに免許を取ってヤマハの二気筒を手に入れました。
「そのバイクでなにをしたかというと......毎日、放課後に10㎞ほど離れた公園までいき、そこで梶をはじめとした友だちと夜までたわいのない話をしていた。別にドラマチックなことはなんにもなかったけど、気の合う友だちといっしょにいれることと、思い立ったらどこにでも気軽に行けるバイクのよさというものを満喫していました。あ、あと、バイクをいじる楽しさに目覚めたのも大きかったかな。自分が将来進むべき道は、デザイナーじゃなくて技術者だと確信するほどにのめり込みました」
シンクロニシティ
この奥川さんと梶さんとのバイクを介した青春っぽい友情は3年ほど続きました。
「いま思い返しても、濃密に楽しい時間を過ごしていた記憶があります」
その後、二人の興味が次第に四輪に移ったこと、そして社会人になったことで、関係はいったん薄まることになります。
奥川さんは高専を4年で中退して自動車ディーラーのメカニックとして働きはじめ、一方の梶さんはちゃんと卒業して四輪レース用のバケットシートやウェアを企画デザインする会社に就職したためです。
同じ四輪関係といってもまったくちがう仕事であるため、ほとんど接点をもつことがありませんでした。
学生時代の友だちというものは、どんなに親密であっても、その後の進路によって会わなくなってしまうことがあります。二人もそんな風に疎遠な関係になっていったのです。
「本来なら、そのまま大人になり、たまの同窓会で旧交を温めるぐらいの仲になるはずでした。ところが20歳のとき、二人のあいだにあるシンクロニシティが起こり、それがきっかけで再び濃い交流がはじまることになったんです」
奥川さんはディーラーのレースクラブの関係でサーキットに通っており、梶さんは梶さんで、仕事の関係でよくサーキットに通っていました。
だからといって出会うことはまったくなかったのですが、不思議なことに二人の心のなかには「クルマのレースより、バイクのレースのほうが断然ダイナミックで面白いな」という思いが同時に芽生えていたのです。
そしてある日、どちらからともなくコンタクトをとり「いっしょにチームを組んでバイクのレースをやろうぜ」となったといいます。
一度好きになったらなかなか忘れられないのがバイク。その偏愛が二人の友情を取り戻してくれたといえるでしょう。
セナvsプロスト
再会した二人は、しかし、以前とはまったくちがう関係で付きあうことになります。
奥川さんと梶さんは、MCFAJのプロダクションレースでともにトップ争いをするライダーに成長し、同じチーム内でバチバチと火花を散らすライバル関係となったのです。
「僕は感覚で走り、彼は戦略で走るタイプ。10代のときはそうした個性のちがいがお互いを引き寄せたわけですが、こんどはちがうスタイルでトップ争いをするわけで、そうなるともう水と油。大げさな喩えでいえば、かつてF1で同じチーム内でトップ争いをしていたセナとプロストのような関係でした(笑)」
では、セナとプロストのように二人の友情は破綻してしまったのでしょうか?
答は否。二人はこのライバル関係という名の友情関係をとことん楽しみました。相手に打ち勝ちたいという思いは憎悪には繋がらず、切磋琢磨という美しい前向きの行為を生みました。
二人が25歳でMFJのレースに挑戦するまでになったのは、そのなによりの証といえるでしょう。
一人の女性を取り合う恋の鞘当てではほぼ100%友情にヒビが入りますが、スポーツであるバイクレースのトップ争いにおいては、そういうことは起こりにくいということなのでしょうか。
バイクと友情はやはり親和性が高いのです。
ハーレーで日本一
結局、二人のレースにおけるライバル関係という友情関係は約8年間、28歳までつづきました。
ある意味、長い青春。その関係に終止符が打たれたのは、同じレースで戦うことができなくなってしまったためです。
「梶は会社を辞めて、自分で広告代理店を立ち上げたので、レースに取り組む時間がもてなくなった。そして僕はといえば、MFJのレースから離れて、ハーレーでのワンメイクレースに夢中になっていた。仲が悪くなったわけではなく、それぞれ自分のやりたいことを追求した結果、会う機会がほとんどなくなってしまったのです」
この別れは意外に決定的で、以降、二人は20年にもわたり親密な交流を途絶えさせることになるのです――。
ところで、奥川さんはなぜハーレーのワンメイクレース参戦を決めたのでしょうか?
正直、MFJのレースのレベルが高く、なかなか勝てなかったことも要因の一つにはなっていましたが、それよりも、10代のころからつづいている二気筒バイクへの偏愛の集大成がそこにあると感じたことが大きかったようです。
「二気筒のバイクは乗り味がいいうえ、いじりやすいから大好きだった。そしてレースにおいては自分でチューニングし、自分でその効果をたしかめながら走れる点がとても気に入っていた。ハーレーのワンメイクレースは、それらがもっともわかりやすい形で体現できる場所に思えたんです。あと、ハーレー、なかでもスポーツスターは、造形的に非常に美しいと感じていて、これでレースするのはすごく面白いだろうな、と」
もう切磋琢磨するライバルの梶さんはそばにいなかったものの、同じ二気筒ならびにスポーツスターへの嗜好をもつ仲間に囲まれ、奥川さんは幸せな気分でレースに臨みました。そして、20代のときに劣らないほどレースに熱く打ち込み、33歳のときに遂に年間王者に輝きました。「ハーレーで日本一速く走る男」との異名で呼ばれるようになったのは、それ以降のことです。
「年間王者になったときは、青春時代にずっと梶といっしょにやってきたことが報われたように思えた。なんか、やり切った感がすごく強かったですね」
奥川さんは、そのときは二輪ショップのメカニックとして働いていたのですが、これを機に独立へと動きだしました。
そして2000年の38歳のとき、BURN H-D SPORTSというハーレー専門のチューニングショップを東京都の東久留米市でオープンさせました。
「独立以降もレースにはちょくちょく出場していました。でも、2007年で45歳になったときに、きっぱりとやめた。なぜかというとお店を埼玉県の所沢に拡張移転して忙しくなっていたし、レースに必要な体力と闘争心が失われたという自覚がはっきりとあったからです」
友の帰還
お店の経営を軌道に乗せた奥川さんは、ときどき気晴らしでサーキットに走りにいきました。レースをやめたとはいえ、やはりスポーツライディングの楽しみは忘れがたかったからです。
「日常で、あんなにスピードをだしてかつ安全に走れるところはない。走り終わるとそれなりにスカッとできるんです」
「ただですね、一人でやっていると、楽しさ100%までとはいかないんですよ。バイクって一人で乗るものではあるんですが、いっしょに走る人がいないとなんだかもの足りない。それに加えて、歳とともに目が悪くなり、反射神経も鈍ってきて、思うような走りができないというもどかしさもでてきた。だから、50歳手前ぐらいで、だんだんとサーキットにいくのがおっくうになりつつあった......」
そんななか、48歳のとき、ある新年会で梶さんに再会。それまでは、たまに顔を合わせても挨拶する程度で別れていたのですが、期せずしてこの日は20年ぶりといっていいほどの長く濃い会話を交わすことになりました。
懐かしかった。お互いの仕事のこと、家庭のことを話し、いつしか話題はバイクに及びました。そして、梶さんがいきなり熱っぽく語りかけてきました。
「オレ、またバイクでサーキットを走りたいんだ。なあ、いっしょに走らないか?」
奥川さんの血は一瞬にしてたぎりました。バイクの楽しみを教えてくれた友、ライバルとして闘った友が、もどってくる!
「もう、歳だからサーキットにいくのがおっくうだなんて、いってられなくなりましたね。よし、わかった。それなら、死ぬまでいっしょに走ろうじゃないか、と」
友情がバイクを呼び、バイクが友情を呼ぶ。どちらが先でもかまわない。ライダー達の紐帯は一度結べば、その時を経てもゆるむことがないのです。
四気筒のワケ
BATTLAX PRO SHOP走行会が行われていた鈴鹿サーキットのピットに話を戻しましょう。
この日、奥川さんはBMW HP4を駆り、梶さんはYAMAHA YZF R1Mを駆っていました。
二人とも四気筒のスーパーバイク。ずっと偏愛してきた二気筒ではありません。
走行会が終わったあと、その真意をたずねると、奥川さんはニヤッと笑ってこう答えてくれました。
「つい最近、サーキット走行は最新の四気筒で走ろうと二人で決めたんです。理由は二つあります。一つは50歳を過ぎて、これまで乗ってこなかったスーパーバイクがどんなにすごいものなのかを体感してみたいという好奇心があったから。もう一つは、いろんな最新デバイスがつくバイクなら、きっと長く安全に乗りつづけられるだろうと考えたから。つまり、ずっと二気筒を愛してきた中高年の、これは変節ではなく、新たな挑戦といういうわけです」
「ちなみに僕、若いころからのヘビースモーカーなんですけど、いま、プラスチック製のフィルターをつけてタバコを吸っています。様にならないのはよくわかっているんですが、梶が『健康に気をつけながら吸ってくれ』とわざわざ2カートンもプレゼントしてくれたので、仕方なくです。そう、梶は、なるべく永くいっしょにサーキット走行を楽しむために、僕のカラダのことをあれこれ気遣ってくれているんですよ(笑)」
友情ぬきには語れない"かつて、ハーレーで日本一速く走った男"奥川さんのバイク人生、最終章はまだまだ先のことになりそうです。
◎奥川さんのお店
BURN H-D SPORTS
〒359-0034 埼玉県所沢市東新井町297-4
TEL 04-2994-2975
FAX 04-2994-2974
営業時間 : 10:00~20:00
定休日 : 水曜、第2または第3日曜日
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