1988~1992年
第8章 ファイアストン社買収と立て直し
第2節 「第2の創業」と、買収後の立て直しの苦闘
第1話 ファイアストンが抱えていた問題点
当時、米国では車のサービス事業の方がタイヤ販売よりも利益率がよかったため、約1,500店の自動車サービス・タイヤ小売販売店網「マスターケア」ではサービス事業に力点が置かれていました。それでも3分の1の店舗が赤字で、業績は悪化しつつありました。
北米タイヤ事業のうち直需(自動車メーカー向け営業)部門は、GMから打ち切り通告があり、フォードに頼らざるを得ない状況でした。独立系ディーラーへ卸す事業も、ディーラーの小売店と「マスターケア」が競合し、ファイアストン同士で犬猿の仲の状態となっていました。
また、開発力の不足や設備の老朽化から、新車用タイヤに占める高付加価値品の比率が低く、生産効率もよくありませんでした。労使関係もまた、リストラ政策などがあり最悪の状態が続いていました。
第2話 買収直後の苦闘
日本本社の国際化推進体制
当社はファイアストンを買収した1988年を「第2の創業」と位置付けました。
家入社長は本社での訓示で、「それぞれの企業体質や主体性、文化を尊重し、最終的には結合から融合に至ることが大事である」と説きました。
ファイアストンは1988年6月、ネビン会長兼社長のもとで、当社の竹内、平井両取締役を含んだ6名の役員構成で新たなスタートを切りました。
ネビン氏に経営を任せたことについて、家入社長は、「われわれが即日乗りこんで切り盛りできればよいのだが、国の数も多いし、組織も大きいし、彼に経営を任せ、徐々に変えていくことにした。米国人は、買収した側が即時乗りこんで、全部変えてしまうのだが、わが社にはそこまでのノウハウはなかった。各ポストを日本人で埋めるだけの力もなかった」と当時の海外要員の限界を述べています。
15億ドルの再建投資の発表
ファイアストンの実状を把握するために、現地に入り込んだ実態調査を行い、その結果、「ファイアストンのタイヤ事業への再集中」などの方針が確認されました。
11月、ファイアストンは3年間で15億ドルを投資するという再建計画を発表。12月、6億ドルをファイアストンに増資しました。
グローバル化への模索
ファイアストン再建に向けて技術部門が着手したことは、高性能タイヤの製造技術の提供と、コスト改善活動の支援でした。
姉妹工場制度の導入
生産部門、製造部門には、生産性の低さ、仕損費の高さ、生産設備の老朽化などの問題について、「技術センターだけでは立て直しはできない」という不安が広がりました。
生産部門では「現場改善には、QC(Quality Control:品質管理)を勉強した製造課長、主任、職長が支援するのが一番よい。日本からの派遣者と各工場からの応援者の組み合わせで支援する。そのために姉妹工場を決め、工場一体となった支援体制をとる」ことにしました。
日本の工場を姉工場、ファイアストンの工場を妹工場として縁組みさせ、姉工場が妹工場を支援する仕組みがスタートしました。
ブリヂストンブランドの現地生産推進による支援
ブリヂストンブランドの現地生産化が進められ、これによって生産技術の移転が進み、ファイアストンブランドの品質向上にも貢献しました。
日系自動車メーカーの海外工場への納入が重要な課題となり、現地で販売される日本車及び日本への逆輸入車に現地生産のタイヤ装着が拡大しました。