「社会にも、極地と同じくらい未知に出会う楽しさがある」——無補給単独徒歩で北極点を目指す、荻田泰永さんが語る“仲間”

ブリヂストンはBWSCを通じて、「Dream bigger. Go farther.」をテーマに人々の夢への挑戦を支えています。 ここでは、北極点を目指し冒険を続ける、日本唯一の北極冒険家 荻田泰永さんへのインタビューをご紹介します。

“If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.”(早く行きたいならひとりで行け、遠くへ行きたいなら皆で行け)

気温マイナス20度以下、半径数百kmには誰ひとりおらず、いつ割れてもおかしくない氷と降り積もる雪だけがある場所、北極。この極地で、途中で補給を受けず、50日近くたったひとりで歩き続け、北極点を目指す冒険を続ける人物が、北極探検家 荻田泰永さんです。

BWSCが掲げるスローガン「Dream Bigger. Go Farther.」をテーマに話を伺うと、荻田さんは、この言葉を語ります。人がまったくいない極地を、ひとり歩く荻田さんは、なぜ“ひとり”ではなく“皆”の重要性を語るのか。彼のキャリアとともに伺いました。

「何かがかわるかもしれない」という期待から目指した北極

荻田さんがはじめて北極の地に降り立ったのは、2000年のこと。

テレビに映った冒険家 大場満郎さんを目にしたことがきっかけでした。

「当時、自分は21歳。大学に面白みが感じられず、半分逃げるように中退し数ヶ月たった頃でした。無目的に日々を過ごしている自分が嫌で、『このままでは何もしないまま時間だけが経ってしまう』と焦っていました。その時たまたま見たテレビで、大場さんが、『来年は若者と一緒に北極を歩く』と語っているのを聞き、『これに参加したら何かが変わるかもしれない』と思ったんです」

そこから大場さんへ手紙を書き、荻田さんは2000年に開催された北極を歩くプログラムへ参加。それまでパスポートも手にしたことがなかった青年は、はじめての海外となる北極で700km近くを歩き切ります。しかし、『何かが変わるかもしれない』という期待とは異なる結果が、荻田さんの前には待っていました。

「日本に帰ってくると、また元の生活に戻るんですよ。特に目標もなく、アルバイトをして、見知った日常が繰り返されていく。一回北極には行ったかもしれないけど、何も変わっていなかったんです」

この状況を打破したいという思いから、荻田さんは、ここから毎年北極へ足を運びます。ただ、それは北極でなくともよく、何かしなければという想いからの行動でした。

「今度は、連れて行かれるのではなく、自分から状況を変えようと思ったんです。ただ、自分は北極しか知らない。だから、また北極を目指したんです。そこから数年間、アルバイトで費用を工面し、毎年北極へ行く日々を続けました。行くたび目標を設定し、少しずつ難しいことにチャレンジする。その繰り返しでした」

北極と一口にいっても、その範囲は非常に広大です。最初は主にイヌイットの村をつなぐように歩き、その距離を徐々に伸ばしていくのが主流。無人地帯距離が伸び、日数がかかるほど難易度は上昇します。また、ルートによって氷の状況が異なり、平らなところと荒れている部分でも難易度に差が生じます。荻田さんは、それらをひとつずつ階段を登るように、経験を積んでいきました。

事故を経て目指した、北極の最難関“北極点無補給単独徒歩”

2007年、ターニングポイントが訪れます。

北極へ行きはじめて7年目。それまで大きなミスもトラブルもなく、徐々に慣れてきた感覚を手にした矢先の出来事でした。

「テントの中で火事を起こしてしまったんです。テントは燃え、半径500km人がまったくいない場所で両手と右足に大やけどを負い、救助される事態になりました。振り返ると、7年やってきた油断や慢心があったんでしょう。それが原因で、簡単なミスを犯してしまったんです」

一歩間違えば死に至る失敗に直面した荻田さん。それまで毎年のように訪れていた北極へも、自然と足が遠のいていきました。

「そこから数年は北極へも行かず、もうやめようかと考えたこともありました。ただ、時間が経つと、あんな簡単なミスをした自分が許せなくなってくるんです。自分はもっとできると証明したい気持ちが徐々に強くなり、3年後の2010年にまた歩き出しました」

再び北極を歩いた荻田さんは、この時ある決断をします。それが「無補給単独徒歩での北極点」という目標でした。

「一回落ちて、もう一回動き出すなら、次は一段と高いところを目指したい。1番難しい目標を追おうと考え、無補給単独徒歩での北極点を目標に据えました」

過去に無補給単独徒歩で北極点へ最後に辿り着いたのは、1994年のボルゲ・オズランド(ノルウェー)と、2003年のペン・ハドウ(イギリス)の二人のみ。温暖化の影響もあり、年々氷の状態は大きく変化し、当時よりも難易度は格段に上がっています。難しいからこの20年弱誰も実現できていない。だからこそ、挑む決意をしたのです。

ひとりではなく、仲間とともに極地へ挑む意義

北極点への無補給単独徒歩は、その名の通り、途中で補給を受けないため100kg以上の荷物を抱え、北極点への800km近くを、50日弱たったひとりで歩くという挑戦です。

2014年挑戦時の様子

ただ、この挑戦は北極点を目指し歩く荻田さんひとりの力で成し遂げられるものではありません。日本から活動を支援する人や費用面を支援するスポンサーなど、多くの人々のサポートが必要になる。これまで一人で北極を歩いてきた荻田さんにとって、社会と向き合い、仲間とともに歩む契機となりました。

「アルバイトをしながら北極へ行っていた頃は、ある意味社会と距離を置いて活動をしてきました。ただ、社会が嫌いなわけでも怖いわけでもありませんでした。難しいことにチャレンジし遠征の規模が大きくなれば、いずれは人やお金を集めなければいけない時期が来るというイメージはあったので、その時が来たという感じでした」

まずはスポンサーです。当初北極を歩いていた頃は、村と村を横断する遠征で、村には定期便が飛んでいるため費用はかかっても100−200万円程度でした。ですが、北極点や南極点を目指すには出発地、到着地に向けた飛行機のチャーターが必要になり、予算は跳ね上がります。荻田さんの挑戦に必要な費用は、概算2000万円。この挑戦に、お金や仲間を集めることは欠かせない要素でした。

「もともと大学を中退して北極に行きはじめたので、私には会社勤めや就職活動といった会社と交わる経験もありません。何をどうしたらいいかも分からず、最初の1−2年は社会勉強と思い、飛び込みで会社を巡っていきました。もちろんそんなに簡単にスポンサーにはなってくれないのですが、何人もの方と話す中で、私の挑戦に価値を見いだしてくれる人と出会えるようになる。資金面の支援は難しくても人を紹介してくれたり、定期的に連絡をくれたりする人もいます。その積み重ねでした」

荻田さんをサポートされる方々

加えて、北極にいる間は、日本から後方支援をしたり、各種手配などを担ったりする仲間も必要です。ただ、荻田さんから手伝ってほしいというのではなく、気がつくと仲間が増えていったといいます。

「社会に飛び込んで格闘していると、だんだん私の動きに気付く人が増えていく。すると、徐々に『変な奴がいるぞ』と興味をもってくれて、気がつくと横を伴走してくれているんです。お互い面白がって手伝ってくれるみたいな感じですね」

スポンサーとなる企業も支援してくれるメンバーも、荻田さんとともに、北極点という目標を追うという点では同じ仲間です。仲間が増えたことを、荻田さんは「一人では一人分の動きしかできません。ですが、複数人であれば、弱みを補完し合い、その人数分以上の動きができる」と語ります。極論、ひとりでも冒険はできる。でも、仲間の力はとても大きい。それは精神面でも同様だといます。

「仲間がいるのは、やっぱり心強いですよ。北極を歩いている時は物理的にはひとりですが、精神的なものと物理的なものは異なります。自分の挑戦を知り、支援してくれる人がいれば、精神的には孤独じゃないんですよ」

自分が受け取ったバトンを誰かに渡す義務がある

この頃から、荻田さん自身の意識は、自分ひとりではなく、社会へと開いていきます。その中のひとつが、自身がこれまで受け継いできた経験や知識を後生へ伝えていく活動でした。

「ちょうど北極点を目指しはじめた2012年頃から、自分のやってきた経験や知恵を、何かに生かせないかと考えるようになりました。私が大場さんに連れて行ってもらい北極と出会ったように、大場さんも最初に北極へ行く時に登山家の植村直己さんにアドバイス受けている。そして、植村さんにも師匠や先生だった人がいる。社会で人と向き合うなかで、自分が受け取ったバトンがあり、このバトンは誰かに渡す義務があると思うようになったんです。
そこから『100milesAdventure』や『北極圏を目指す冒険ウォーク』といった活動をスタートしました」

2018年に開催された『100milesAdventure』の様子

100milesAdventureは、小学生を対象に、100マイル(=約160km)の山歩きをするイベント。ただ、アウトドア技術や、サバイバル技術を学ばせるものではなく、山を歩き、ご飯を食べ、仲間と話すという一般的な活動の中で起こるできごとを、うまく子供たちの成長機会へ見出していくのがこのイベントの特徴です。

「このイベントは、大人が子供にどれだけ期待しないでいられるかが重要です。これを感じてほしいと言ってしまうと、『そうかそれを感じればいいんだ』と子供たちはなってしまう。でも、本来イベントから学ぶものは、10人10通りでいいはずです。私の役割は、場を作り、その中に生まれる自然発生的な芽を見逃さず、成長機会にすることなんです」

一方『北極圏を目指す冒険ウォーク』は、若者を対象に荻田さんとともに北極圏を600km歩くというもの。2019年では、大学生や社会人、フリーター、会社を辞めてきた人など、平均年齢23歳の12名が参加。はじめてテントや寝袋で寝たという人もいる中、1カ月かけ、北極圏を踏破しました。

「北極では、最初の2週間は私が隊列の先頭を歩き、どこへ向かうかをナビゲーションします。一方、後半の2週間はメンバーにナビゲーションを一任。地図やコンパスの見方から太陽の位置と時間での方角の読み方、風紋(※風によってできる雪の模様)の読み方などを教え、自ら進む方向を考えてもらいます。もちろん、経験がないので、最初はなかなかうまくいきません。でも、ナビゲーションが間違うと、危ないところに行くかもしれないし、余計な距離を歩くかもしれない。みんな一生懸命になりながら挑戦をしていくんです」

自身の経験も踏まえ、荻田さんはこのプログラムはあえて「不満が残るくらいがちょうどいい」と考えます。

2019年に開催された『北極圏を目指す冒険ウォーク』の様子

「みんな、行く前は600kmも歩けるかなという不安を抱えていますが、実際に行ってみると意外とできてしまうんです。というのも、私みたいな人間がマネジメントしながら行けば、まぁ誰でも歩けるんですよ。すると、ゴールに着く頃には慣れてきていて“もっとやれるんじゃないか”という感覚を持つようになる。でも、そこで終わってしまうので、微妙な物足りなさが残るんです。これは意図したことではなかったですが、私自身大場さんの企画に参加したときは、確かに同じ感覚だったと記憶しています。ですが、その不満が次に動く時の原動力になる。ちょっと先が見える状態が、若者にはちょうどいいと思っています」

どちらのプログラムも、荻田さんが提供したと考えるのは、自身が大場さんによって開いたもらったような、“新たな世界”を見せることです。

「子供は小さな大人だし、大人は大きな子供です。かける言葉はそれぞれによって変わりますが、どちらも、目的自体は変わりません。新しい世界をひとつ開いて見せることが、自分の役割だと思っています」

社会にも、極地と同じくらい未知のものに出会う楽しさがある

社会へ意識を向け、新たな挑戦を志した荻田さんは2012年、2014年の2回、北極点に向けた無補給単独徒歩へ挑戦。いずれも北極点への到達こそ叶いませんでしたが、2016年には、カナダ〜グリーンランドの1000km単独徒歩行を成功。そして2018年の南極点無補給単独徒歩も成功するなど、北極点へ向け着実に腕を磨き続けてきました。

これらの挑戦を振り返りつつ、荻田さんにBWSCが掲げるスローガン『Dream Bigger. Go Farther.』という言葉に想うことを問うと、あらためて仲間の大切さを語ってくれました。

前回お話を伺った植松努さんも、荻田さんの活動を支える仲間のひとり。共に冒険する装備品一つひとつにこだわりを詰め込む荻田さんは、ソリの開発を植松さんに直談判しサポートを依頼しました。

「『早く行きたいならひとりで行け、遠くへ行きたいなら皆で行け』という言葉があります。自分も、歩く時こそひとりですが、仲間がいて、チームを組んでいるからこそ挑戦できていると思っています。何かを成し遂げるにはひとりの力では限界がある。大きな夢を成し遂げるには、人の力がどうしても必要になりますから」

自身の北極点への挑戦、そして経験を後生へ伝えていく活動とも、荻田さんの意識は自身だけではなく社会へも向いているからこそ、そのうねりを大きくしてこられたのかも知れません。そんな荻田さんはいま、社会と向き合う面白さに興味を惹かれているといいます。

「いま、自分の経験や活動を、社会の中にどう持ってこられるかに関心はあります。もちろん北極点を目指すことは外せませんが、スポンサーや仲間を集める中で、社会の中にも、極地で新たな風景を見るのと同じくらい、未知のものに出会う楽しさがあると気付けた。だからこそ、もっと社会や人と向き合いを大切にしたいんです」