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1961~1972年

第5章 高度成長とモータリゼーションの中で

第5章 高度成長とモータリゼーションの中で 1961~1972

第5節 国内タイヤ販売体制の近代化とラジアルタイヤ時代の販売活動

第1話 販売会社管理体制の充実と系列化

当社製タイヤを専門に販売する販売会社の数は1963年には全国で36社に達していましたが、収益性の悪化、過剰在庫など、経営面の問題を抱えていました。1963年に販売会社の定義・使命を「販売会社管理要領」で成文化し、「販売会社財務管理要領」では販売会社制度の基本事項の統一を図り、方針管理、財務標準を整備することとしました。
1960年代後半の経済成長の過程で、労働市場は「売り手市場」であったため、販売会社施策の中でも優秀な人材の確保・定着を重視し、給与の改善、採用援助、福利制度の改善などが急がれました。
また、流通網の強化を図るため、販売会社の直接系列化を進めています。1969年のブリヂストンタイヤ東京販売の設立を皮切りに、各地に販売会社を設立しました。当社と販売会社の一体感のために、販売会社の呼称を統一して「ブリヂストンタイヤ○○販売」としたのもこの頃です。

第2話 販売拠点の系列化

1967年、当社は流通機構の近代化、合理化、タイヤ専業店の系列化を推進するために、「ブリヂストンタイヤショップ制度」を発足させました。資格条件として、月商、当社製品の取扱い率、資産内容、支払い状況などを定め、厳選につとめました。この結果、初年度419店であった契約店数は1970年には659店、1980年には1369店と増加しました。
SS(サービスステーション)の育成にも力を注ぎ、乗用車用タイヤ販売額の25%を占める小売販売網に成長しました。

第3話 アルミホイールの発売

ドライバーの間に足回りのファッション性を重視する傾向が強まってきたため、アルミホイールの事業化を構想し、1971年に設計・受入検査・販売は当社、製造は外注という方針を決定し、開発・設計に着手しました。商品名を「ZONA」とし、1972年にテスト販売を開始しましたが、製品設計が充分ではなかったため品質トラブルも少なくありませんでした。
当時、アルミホイールはほとんど販売されておらず、テスト販売は市場開拓の実験でもありました。当社は営業部を発足させ、販売体制を整えました。1974年になると「ZONA」は急速に販売量を伸ばし、主要製品に成長しました。しかし、その後は各タイヤメーカーも参入し、専業メーカーとも厳しい競争の時代を迎えることとなりました。

第4話 BTM制度とBTA制度

1961年、「BTM」制度を発足させています。BTMは、ブリヂストン・タイヤ・テクニカル・マンの略称で、販売会社・代理店のセールスマンにタイヤの技術知識を習得してもらい、テストに合格した者にBTMの資格を与えました。これは技術サービスの充実、アフターケアの迅速化、クレーム処理の合理化を図るものでした。
またBTMが得た市場情報は当社にフィードバックされ、新製品の開発、既存商品の改良、販売戦略の立案などに大いに活用されました。
1971年には、小売店のセールスマンを対象とした「BTA(ブリヂストン・タイヤ・アドバイザー)制度」も発足させています。

第5話 モータースポーツ活動への参画

当社がはじめてモータースポーツ用タイヤを開発し、投入したレースは1963年の第1回日本グランプリでした。1971年には富士グランドチャンピオンシリーズがスタートし、モータースポーツも次第に社会に認知されるようになってきました。
しかし、1973年の石油危機により省エネルギー意識が強くなったため、当社はモータースポーツとの関わりを後退させています。さらに1974年、富士スピードウェイで契約選手が関係した大事故が発生し、「過熱したタイヤ戦争の結果である」との批判も受け、レース活動を中止することとなりました。
モータースポーツ活動を再開したのは1976年です。ラリー用ラジアルタイヤの発売と、富士スピードウェイで開催される日本初のF1グランプリへのタイヤ供給を行いました。当初は協賛のみで、出場マシンへのタイヤ供給は考えていませんでしたが、国内関係者の強い要望もあって日本GP用にF1タイヤを開発し、星野一義選手のティレル007に装着されました。マシントラブルで惜しくもリタイヤとなりましたが、日本GPのみのタイヤ供給ではあれ、F1初参戦を果たしたことになります。日本GPは、1977年にも開催され、当社は「コジマKE-009」2台にタイヤを供給し、星野選手は11位の成績を残しました。 F1の日本での開催はこの2年間で中断され、当社のタイヤ供給も終了しました。当社がF1に本格参戦したのは、その20年以上後の1997年のことです。

第6話 看板の設置とマスコミ広告

1961年より系列下のタイヤ専売店やSSなどの販売拠点に看板の設置を開始しました。「黄と赤」の看板は、タイヤサービスを受けられる店の目印として、ドライバーにアピールするものでした。「2キロに1店ブリヂストンのサービスショップ」というスローガンの「2キロに1店」は当社の代名詞になった感すらありました。テレビ広告に、CMソング『どこまでも行こう』(小林亜星作詞・作曲)が誕生したのは1966年です。

「2キロに1店ブリヂストン」の広告