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1973~1981年

第6章 創業者の死去と輸出基盤の強化、現地生産の進展

第6章 創業者の死去と輸出基盤の強化、現地生産の進展 1973~1981

第1節 創業者の引退と死去

第1話 創業者引退による社長交代

1973年5月15日、創業以来42年間、最高責任者として当社を指揮した石橋正二郎が会長から退く決意を表明し、新会長に石橋幹一郎社長、新社長に柴本重理副社長を指名しました。
石橋正二郎は、全従業員に最後の経営方針を次のように述べています。
「本年2月1日、私は84歳に達しました。私は社長として32年、会長として10年間、事業一筋に生きてきました。当社の歩みはいばらの道で、決して平坦ではなかったが、諸君の永年の精励と協力によりまして、今日の隆盛を見るにいたりましたことは深く感謝するところであります。
さて私は、数年前より後進に道を開きたいと機会を待っておりましたところ、幸い業績はますます順調で、なんの憂いもないことから、絶好の機会と考え、会長を辞任することを決意したのであります。
最高責任者が代わっても、会社の経営方針など、いささかの変わりはありません。
会社が大きくなればなるほど、企業の社会的責任は重くなり、その使命を果たさねばなりません。この機会に、当社の創業以来守ってきた事業経営の根本方針についてふれてみたいと思います。

  1. 1、株主には適正利潤をもって酬いること
  2. 2、ユーザーにはつねに独創の技術をもって満足を与えること
  3. 3、従業員には愛情と理解とをもって心から円満に結び合うこと

この伝統のブリヂストン精神を守りつづけ、ますます発展し、社会に貢献することを切に希う次第であります」

柴本新社長(中央)石橋幹一郎会長(右)成毛副社長(左)

第2話 創業者石橋正二郎の死去

石橋正二郎は死去する7、8年前からパーキンソン病を患い、1975年後半から歩行に不自由を感じるようになり、自宅で静養、治療につとめましたが、1976年3月には入院をすることになりました。
以来、病院での加療生活が続きましたが、同年9月11日、近親者の見守るなか87年の生涯を閉じることとなりました。
葬儀は9月28日、柴本社長を葬儀委員長として東京・青山葬儀所で社葬として行われました。午後1時、銅鑼の音を合図に黙祷を捧げ、弔意を表した後には、久留米工場吹奏楽団によるベートーベンの「英雄」の追悼演奏が続きました。
当社・関連会社を代表して柴本社長、友人を代表して石井光次郎元衆院議長、労働組合を代表して中央執行委員長が弔辞を述べ、会葬者4,500人が霊前に献花をしました。
また、10月5日久留米市では、名誉市民であった石橋正二郎の死去を悼み、久留米市民葬が県立体育館で行われ、4,000名の会葬者が菊花を献じました。