まだ、これから。
スポーツは常に新しい目標を持たせてくれる
谷真海(佐藤真海)
東京2020オリンピック・パラリンピック大会の招致に見事なスピーチで貢献した谷真海選手(旧姓:佐藤)。パラリンピックは走り幅跳びの選手として2004年のアテネ大会から2012年のロンドン大会まで3大会連続出場を果たしているが、結婚と出産を経て、2016年、パラトライアスロンへの転向を表明した。目指すは、母国開催となる自身4度目のパラリンピック出場だ。初めての種目、初めての環境下で、谷選手はどんな挑戦をしようとしているのか。
次のスポーツとしてパラトライアスロンを選んだ
アスリートであり、家庭では2歳児の母でもある谷選手。忙しさは察するに余りあるが、招致スピーチで世界中を魅了した「真海スマイル」はこの日も健在。早速パラトライアスロンに転向した理由を聞くと──。
「スポーツは私の人生になくてはならないもの。瞬発系の競技である走り幅跳びを10年間続けるなかで、年齢が上がっても続けられる次のスポーツとして持久系のパラトライアスロンを考えていました。以前からクロストレーニングにロードバイクを取り入れたり、気分転換にトライアスロンの大会に出場したりしていたので、自然な流れでしたね」
とはいえ、出産後の体の変化も考えると、アスリートとしての復帰はそう易しいことではないはずだ。
「種目を変えたことがプラスに作用したと思います。出産前に戻していくというよりは一から積み上げていく形なので、昔の自分と比較してしまうこともなく......。もちろん時間はかかりますが、少しずつ、自分の体や家族と相談しながら、模索しながらここまで来ました」
意外にも、最初から"絶対に世界で闘う"と決めていたわけではなく、「常に迷いながら、子どもが1歳になって落ち着いてきたころやっと、もう一度頑張ろうと心が決まった」と、谷選手。
「出産して仕事に復帰する女性たちと変わらないです」
課題だらけだが伸びしろはある
以前は競技第一だったが、今は、家庭があって、競技があって、仕事があると考えている。
「プライオリティをつくらないと生活がまわらないし、何より自分が苦しくなります」
子どもの具合が悪いときは練習を休みもするが、練習でうまくいかなかったときなどうまく気持ちを切り替えられるのも、家族のおかげだ。
そんななかで谷選手は、早くも結果を出している。2017年5月、初めて出場したITU(国際トライアスロン連合)世界パラトライアスロンシリーズ横浜大会で優勝。9月のシリーズ最終戦(オランダ・ロッテルダム大会)でも優勝を果たし、一躍注目される存在に。
しかし、当の本人は"ビギナーズラックのようなもの"だと眉宇を引き締める。
「ようやく競技の難しさがわかってきたところで、スイムとバイクとランの3種目をどう構成してレースを展開するか、力の配分や集中力の高め方などがまだつかめていません。意識して勝ちにもっていけるようにならないと」
そもそも練習を始めた当初は育児との両立で時間をつくること自体が大変で、慣れない持久系のトレーニングに体力もついていかなかった。3種目それぞれの課題と向き合うという複雑さもある。
「でもそれは、裏を返せば伸びしろがあるということです。難しさと同時に新鮮な面白さもあって、毎日やりがいを感じながら練習に励んでいます」
パラスポーツの魅力を伝える
谷選手はトレーニングの合間を縫い、講演や学校訪問などを通じてパラスポーツの魅力を伝える活動も行っている。東京でのパラリンピック開催が決まってからは一般の人もメディアなどで競技を目にする機会が増え、純粋なスポーツとしての楽しさが広く伝わってきていると感じるそうだ。
しかし、本当に大切なのは2020年のその後だという。
「段差をなくすなどハード面の整備を進めて残していくことは大事です。でも、それ以上にソフト面、心のバリアフリーをパラリンピックを機会に進めていきたい。特に障がい者に対してというのでなく、お年寄りや、妊婦さんや、すべての人に配慮した社会であるべきだと思うんです」
谷選手自身も、義足をつけるようになって障がいに対する意識が変わった。
「それまで周りに障がいのある方もいませんでしたし、ただ大変そうだなと思うくらいで、パラリンピックのこともよく知りませんでした。でも、自分が義足になってスポーツを始めてみると、以前部活動で走ったり泳いだりしていたときと何ら変わりない──選手として体をつくったりモチベーションを高めていくのはごく普通のことで、わざわざ"障がい者スポーツ"という言葉があるのが不思議なくらいでした」
障がいを多様性ととらえ、スポーツを通してポジティブな理解を育んでいきたいという谷選手。
「選手たちはそれぞれいろいろな障がいをもちながら、体に応じて、自分の他の部分の力を引き出す努力をしています。そこに人間の可能性も見えてくる。スポーツがロールモデルとなって、街でも学校でも会社でも、いろいろな人が混じり合い、一緒に社会をつくっていくのが当たり前になるといいと思っています」
パラリンピックでメダルを獲りたい
淡々として気負いがなく、「まだ、これから」を繰り返す谷選手だが、最後に欲ものぞかせてくれた。
「パラリンピックでは、まだメダルを獲っていないんです」
レースの勝負ポイントとなる強みはこれからつくっていくとしても、鍛えた体幹は基本的なアドバンテージだと感じられる。
「走り幅跳びを10年間やってきて、体の軸はできています。義足だと左右がアンバランスになりがちなところを、3種目を通じてビシっと体幹を保っていられるんです」
また、過去にパラリンピック3大会を闘った経験も、自信になっているそうだ。
「4年に1度の大会に照準を合わせた練習を経験してきました。大会1年前の2019年には闘える状態に完成させることを思うと、冒険できるのは来年(2018年)まで。スピードアップの工夫や道具の改良などいろいろなことにチャレンジして、タイムを詰めていきたいです」
練習でも試合でも苦しい場面はたくさんあるが、「そういうときいかに自分をコントロールできるかが大事。一回一回の練習でも辛くなってきたとき、そこで引かない。常に自分の限界ラインを押し上げていくようにしています」と谷選手。
そうしたことを笑顔で、しかもサラリと話す。その気持ちの強さこそ最大の武器なのだろう。子どものころから努力が得意で「気持ちで負けない」ことを自分自身に言い聞かせてきたが、障がいをもって己の弱い面も知り、スポーツの力で乗り越えて、芯から強くなった。
「スポーツは人を前向きな気持ちにさせてくれるから好き。私の今の目標は東京2020パラリンピックでのメダル獲得ですが、その後もずっと、都度目標を変えながらスポーツを続けていくでしょう。終わりなくチャレンジできる。それがスポーツの素晴らしさですね」
谷真海(佐藤真海)MAMI TANI
1982年生まれ、宮城県出身。中学生で陸上競技を始める。早稲田大学で応援部チアリーダーズで活躍していた2001年の冬、骨肉腫を発症し2002年4月に右足膝下を切断。アテネ2004パラリンピックで走り幅跳びに出場し以降3大会連続で出場した。東京2020大会の招致活動では、IOC総会でプレゼンターを務めた。2016年から東京2020パラリンピックを視野にトライアスロンに転向。2017年シーズンから本格的に世界シリーズに挑戦すると、世界パラトライアスロン選手権で優勝し、この競技で日本人初の世界一に輝く。自ら招致を呼び込んだ東京2020パラリンピックでは、PTS4クラス未実施のため、より障害の軽度なPTS5クラスで挑戦。ゴール直後の笑顔が話題となった。
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